人生で最悪で最高の日

記事:小野孝太郎(ライティング・ゼミ日曜コース)

「人生で最悪の日と最高の日を一日で味わえる。それがアイアンマンなのよ」
彼女は言った。

それを聞いた時の私の素直な気持ちは、
「え? 何それ? どんな日だろう? 体験してみたい……」
「でも今の自分には到底ありえない……」
だった。

当時私はアメリカのあるIT企業で働いていた。社内にジムがあり、社員はエアロビクスのクラスを無料で受けることができた。そこでインストラクターの一人が冒頭のように話したのだ。

ところで、ここでいう「アイアンマン」は映画やアニメのことではない。トライアスロンのアイアンマンだ。アイアンマンは水泳3.8km、自転車180km、ランニングは42.195kmという長距離のトライアスロンなのだ。

私が37歳、中年太りまっしぐらだった頃、先輩がジムでエアロビクスを受けられるから一緒に出ようと誘ってくれた。その時は内心「男がエアロビクスをするなんて気色悪い」と思い断った。しかし何度も声をかけてくれたので、断るためだけに一度出てみたのだ。

初めてクラスを受ける日、恐る恐るスタジオを覗いてみると、まだ他に生徒は来ておらず私が一番だった。インストラクターらしきアメリカ人の女性が私の気配に気づいてくれた。笑顔で声をかけてくれたので一気に緊張が和らいだ。

クラスが始まり彼女の声掛けと軽快なBGMの元、他の20人ほどの生徒とともに体を動かした。楽しく爽快に汗をかいた、あっという間の1時間だった。そのクラスの終盤に彼女は私達に語りかけてくれた。

「初めて出た人も、これまで何度も出た人も、今日は来てくれてありがとう」
「あなた達のことを、とても誇りに思います」
「明日以降も会えることを楽しみにしています」

重い腰をあげてこのクラスに出てみて本当に良かったと思った。
断るために出たはずだったのに、これからは毎日出ようと決めた。

彼女はさらに、
「私はアイアンマンのトレーニングをしています」
「3.8km泳いで、180km自転車に乗り、最後にフルマラソンを走る。これらを一日でやるの」
「人生で最悪の日と、最高の日を一日で味わえるのよ」
と語ったのだ。

興味は沸いた。いつか自分もやってみたいと思った。でも、当時の私にとってはどの種目一つとっても想像を絶する、あり得ない距離だった。

その日から毎日クラスに参加した。毎日違うインストラクターが様々なエアロビクスを教えてくれた。最初の2週間くらいは体中が筋肉痛でバキバキだったが、徐々に慣れてきた。

2週間だけでも自分の体に驚くほどの変化があった。
まず肌がスベスベになった。体の各所になんとなく感じていた小さな痛みや違和感が消えた。夜はぐっすり眠れたし、朝起きると頭が冴え渡っていた。何を食べても今までより美味しく感じるようになった。心身ともに健康になっていく喜びを日増しに実感していた。

徐々にジーンズのベルトがゆるくなり、2か月後にはどのズボンもぶかぶかになった。その頃初めて走ってみた。ゆっくりだが5kmを走り切ることができた。そんな長距離を走ったのは高校時代に嫌々走ったマラソン大会以来だ。その日のうちに2ヶ月後のハーフマラソンの大会に申し込んだ。わずか2か月でこれだけ自分を変えることができたのだから、あと2か月あれば絶対にできると思ったのだ。そして人生初のハーフマラソンは1時間57分で完走することができた。

「自分にはあり得ない」と思ったアイアンマンも、必要なトレーニングを積み重ねればできるかもしれないと思えるようになった。

ハーフマラソンを走った3か月後にフルマラソンを4時間10分で完走した。その1ヶ月後にはサンフランシスコ湾にある「アルカトラズ島」という、昔、刑務所があった島から2.4km泳ぐ大会に出場し完泳した。あとは自転車で180km走れるようになり、3種目を一日でやりきることができるようになればアイアンマンは完走できる。

そして、初めてエアロビクスのクラスに出たあの日から2年後の39歳の時、アイアンマンのレースに出て13時間40分で完走することができた。

子どもの頃、周りの大人の多くが「年だから体が動かない」とか「腰が痛い」などと言うのを聞いていた。だから大人になったら死ぬまで体力は低下する一方なのだと思っていた。でもそれは間違った思い込みだったのだ。

年を取ったら体が動かなくなるのではない。
体が動かなくなるような生活習慣だからそうなってしまうだけなのだ。

やむを得ない障害のために不可能な場合を除き、マラソンやトライアスロンは、本当にやりたいという想いさえあれば、練習すれば誰だって完走はできるのだ。
泳げない? 習えば大丈夫!

さて、私のアイアンマンの体験はどうだったか?

確かに「人生最悪の日」だった。
水泳と自転車は順調に終わった。充分余力を残して最後のフルマラソンに挑んだ。ところが10km走った辺りで足が鉛のように重くなり、残りの30km余りは地獄だった。

一歩一歩進みながら「俺はなんでこんなものに申し込んでしまったのだろう? こんな場所で何のためにこれほど苦しんでいるのだろう?」と考え続けた。

しかしどんなに苦しくても、一歩一歩進み続ける。それ以外にできることはなかった。

なんとか最後まで辿り着き、ゴールに向かった最後の直線で観衆の大きな拍手と声援を受け、感極まって涙を流しながらゴールテープを切った。
これまでの人生で味わったことのない達成感……
確かに「人生最高の日」だった!

みなさんも良かったら「人生で最悪で最高の一日」是非一度、味わってみませんか?!

≪終わり≫

私が始めてマラソンを走る前に読んだ本
村上春樹さんの「走ることについて語るときに僕の語ること」

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